社会生活上の我慢の功罪

f:id:matzbarafmyaki:20190223061035j:plain

我慢強いことは美徳である。辛い作業も、娯楽に身を任せたい気持ちも我慢して、精進を重ねた結果、やりたかった仕事を射止め、優秀な成績を残すのは、尊敬に値することである。しかし、家族、隣人、同僚と社会生活を営む上では、我慢が美徳と思っているのは本人ばかりで、却って我慢が物事の進行や永続を妨げることが多い。

例えば、電話会議でヘッドセットが不調な為、会議のやりとりを聞き取れないとする。我慢強い人は、他の会議の参加者に迷惑をかけまい、とばかりに、音の出ないヘッドセットに耳を澄ませ、画面表示される会議資料から会議の進行を推し量ろうとするかも知れない。これは、他の会議参加者に迷惑をかけていないようでいて、実は周りに余計な手間を発生させる。会議の参加者は、後日、当人に会議の内容を説明しなければならない。万一当人から重大な疑義が提起されれば、会議を再招集したり、メールと電話で会議参加者の意思を再確認する必要もある。その間、会議と無関係な同僚たちも、当人が頼んだ仕事を終わらせるのを今か今かと待っていなければならない。このような大迷惑を考えるならば、当初ヘッドセットの不調に気づいた時点で、その旨を申し出、使う電話会議システムを切り替えるなり、近くにいる他の参加者の音声をスピーカーに繋いで貰うなりした方が面倒が少ない。そのような代替手段が無ければ、電話会議から退出して、他の仕事に取り掛かるのが待たせている同僚のためである。

このように、我慢強い人の我慢は、自分の異常により周囲の人に迷惑を掛けたくないし、自分も恥をかきたくないという動機から起きることがある。このような場合は、自分が我慢する場合と我慢しない場合とで、どちらが物事の進行と永続に支障を来すか冷静に考える必要がある。世間では異常は一般的なことであり、異常に対応できる柔軟性のない組織や体制はどこかで行き詰まる。あなたの異常の申し立ては、少なく見積もっても、組織や体制が異常に対応するための訓練になるし、その異常が組織や体制の構造に根ざすものであれば、その永続のために必要な対応を模索する端緒となり得る。