Executive MBAてんやわんや (2019年3月)

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3月からスペインのIEビジネススクールのExecutive MBAに参加している。このプログラムは15ヶ月間の課程であり、マドリードで各1週間の演習に3回出席するほかは、基本的にオンラインで進行する。学生は皆、経験を積んだ職業人であり、各自の仕事とExecutive MBAの勉強を両立させなければならない。


3月は財務会計入門の講座があった。ビデオを含むオンライン教材で予習した内容を、平日にネット掲示板で、教授やクラスメートと一緒に議論してゆく。予習が不十分だと、平日に仕事と予習と議論を並行してこなさなければならず大変である。自戒をこめて書くと、平日の限られた時間で仕事と勉強をこなすには、週末の準備が鍵だ。


そして3月31日には、いよいよビデオ会議による講義が始まった。これは毎週土曜日の夜に開かれることになるビデオ会議の第1回目である。わたしは当日外出しており自宅からは参加できないため、赤羽駅前の伊藤で煮干しスープのラーメンで腹ごしらえした後、ホテルから参加する。講義の内容は、事例研究 (case method) の目的と方法についてであった。教授曰く、事例研究は、元々、軍事教育の分野において、刻々と変化する不確かな状況を処理する人材を開発する目的で、始まった。その方法は、公式や処方ではなく、感情や態度や行動に注目する。事例研究は、参加者が費やした努力と時間が成果を生む。従って、学生諸君は数ヶ月後には事例研究中毒となっていることだろう、と。


事例研究中毒?その意味は、1回目のチーム課題提出の期限が2日後の月曜日に設定されたことで明らかになる。チーム課題だから、メンバーが課題を理解して解決するだけでなく、チームで見解を議論し、資料をまとめなければならない。それも、ユーラシア大陸の様々な時間帯で生活するメンバーが。早速、チームメンバーが会話してWhatsAppとzoomとslackのグループが設定され、日曜日にチームミーティングが設定された。そのチームプレイの素早さと鮮やかさは、ハリウッド映画Internのようである。わたしは、このチームプレイに貢献できるだろうか?


ひとまず煮干しスープのラーメンをもう一杯食べて考えることにしよう。

猫の茶碗

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落語の「猫の茶碗」では、2人の商売人のやりとりに連れ、猫の価値と茶碗の価値が上下する。この、価値のないところに価値を生み出してしまう話は、聴衆の射幸性と好奇心に訴える。

同様な価値の高下は製造業でも数年単位で起きる。例えば、半導体業界では、1990年代までは開発と製造の垂直統合が価値を生み出していたが、2000年代には、TSMC (Taiwan Semiconductor Manufacturing Company) を始めとする半導体製造委託業が製造ノウハウを蓄積する一方、クアルコムのようなファブレスメーカが開発・設計の知的財産権を蓄積し、専業化による投資の集中と規模の経済が強みを発揮するようになった。自動車業界においても、従来通り完成車メーカーが業界の主導権を握るのか、googleのようなサービス提供者が覇権を把るのか、関係者は注視している。

製造業で働く身としては、こういう価値を生み出す場に立ち会えることを切に願う。布団に包まって落語を聞いているわたしは「猫の茶碗」の猫ほどの価値もないけれども、そういう場では猫の手ほどの価値はあるだろう。

岩田恵子氏のベートーベン弦楽四重奏

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2月16日に朝日カルチャーセンターで、コンセルトヘボウの第1バイオリン奏者である岩田恵子氏の主宰する弦楽四重奏を聴いた。曲目は、ベートーベンの作品18-1弦楽四重奏第1番と作品95セリオーソ。4人の演奏者の個性が存分に発揮された良い演奏だった。

オーケストラの弾く交響曲とは違い、1人1パートを担う弦楽四重奏は、各奏者の弾き方が聴衆の耳に露わになる。だから、各奏者も存分に個性を発揮できるし、逆に各奏者の個性の感じられない弦楽四重奏は退屈である。今回は、第1バイオリンの岩田氏の翳りのある響きが圧巻だが、ビオラの井上典子氏が曲想の転換点で内声を強調しアンサンブルをリードしていたのも印象的だった。比べるのも失礼な話だけれども、電子オルガンの一本調子な弦の音色で弦楽四重奏の楽譜をなぞっても、弦楽四重奏の愉しさは分からない。そこには各奏者の個性がないから。

作品18-1と作品95の間のトークで、チェロの植木昭雄氏が、第2バイオリンのビルマン聰平氏ビオラの井上氏の間で、ある和音を明るく弾くか暗く弾くか論争があったことを紹介していた。こういう話を聴くにつれ、4人の演奏家たちが、単に高い技術を武器に巧みな演奏を目指すだけの職人ではなく、音楽の美しさは奈辺にあるかを探究する芸術家であることが分かる。今回の、各奏者の個性が光る弦楽四重奏も、このような弛まざる美の探究が根っこにあるのだろうと推測する。

岩田氏率いる弦楽四重奏団によるベートーベンの次の演奏は、今年 (2019年) の7月を予定しているそうだ。

社会生活上の我慢の功罪

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我慢強いことは美徳である。辛い作業も、娯楽に身を任せたい気持ちも我慢して、精進を重ねた結果、やりたかった仕事を射止め、優秀な成績を残すのは、尊敬に値することである。しかし、家族、隣人、同僚と社会生活を営む上では、我慢が美徳と思っているのは本人ばかりで、却って我慢が物事の進行や永続を妨げることが多い。

例えば、電話会議でヘッドセットが不調な為、会議のやりとりを聞き取れないとする。我慢強い人は、他の会議の参加者に迷惑をかけまい、とばかりに、音の出ないヘッドセットに耳を澄ませ、画面表示される会議資料から会議の進行を推し量ろうとするかも知れない。これは、他の会議参加者に迷惑をかけていないようでいて、実は周りに余計な手間を発生させる。会議の参加者は、後日、当人に会議の内容を説明しなければならない。万一当人から重大な疑義が提起されれば、会議を再招集したり、メールと電話で会議参加者の意思を再確認する必要もある。その間、会議と無関係な同僚たちも、当人が頼んだ仕事を終わらせるのを今か今かと待っていなければならない。このような大迷惑を考えるならば、当初ヘッドセットの不調に気づいた時点で、その旨を申し出、使う電話会議システムを切り替えるなり、近くにいる他の参加者の音声をスピーカーに繋いで貰うなりした方が面倒が少ない。そのような代替手段が無ければ、電話会議から退出して、他の仕事に取り掛かるのが待たせている同僚のためである。

このように、我慢強い人の我慢は、自分の異常により周囲の人に迷惑を掛けたくないし、自分も恥をかきたくないという動機から起きることがある。このような場合は、自分が我慢する場合と我慢しない場合とで、どちらが物事の進行と永続に支障を来すか冷静に考える必要がある。世間では異常は一般的なことであり、異常に対応できる柔軟性のない組織や体制はどこかで行き詰まる。あなたの異常の申し立ては、少なく見積もっても、組織や体制が異常に対応するための訓練になるし、その異常が組織や体制の構造に根ざすものであれば、その永続のために必要な対応を模索する端緒となり得る。


未明の起床

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今日やらなければならない無数のこと、とりわけ昨日までにできなかった無数のことを終わらせるために、わたしは未明に起床する。その中には、人から頼まれて引き受けたことと、わたしが率先してやりたかったことが含まれる。それらを完成する為に、飲まず食わず徹夜で仕事をすることもできたのだが、昨晩は夕食をきちんと取り、11時には就寝できた。今日は色々な人に会わなければならないし、明後日も明々後日も色々とやることがある。実りある出逢いと経験のために、布団を跳ね除け、りんごを囓り、歯を磨き、身支度して、出掛けよう。

外に出ると、月影はさやかに、湿った強い風は春の気を含んで暖かだった。わたしは自転車を漕ぎながら般若心経を吟じた。後で聞いたところに依ると、その日は春一番が吹いていたようだ。

社会的な議論の質の向上に於けるGMATの役割

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政治家と政治評論家の詭弁に接する度に、事実に基づく論理的な議論なくして、意見を異にする者の間の対話は成り立たない、と痛感する。しかし、現実には、少なからぬ国民がそれらの詭弁を詭弁と思わず、かえって詭弁の信者となってそれを拡散している。風通しのよい社会の維持・発展には、事実に基づく論理的な議論を社会に根付かせる必要がある。そのためにはMBA (経営学修士) の試験にしばしば用いられるGMAT  (経営大学院入学試験) のAnalytical Writing Assessment (論述評価) とCritical Reasoning (批判的な推論) が有効であると考える。

Analytical Writing Assessmentとは、問題文で紹介される主張の論理的な弱点を分析する論述問題である。Critical Reasoningとは、問題文を読み、その結論の根拠となり得る事実、結論の前提となっている仮定、問題文で挙げられる根拠から導かれる推論などを選択肢の中から選ばせる問題である。これらの問題は、次の2つの点で、事実に基づいて論理的に議論を運ぶ習慣を醸成する。第1に、問題文の主張が暗に前提としている仮定を評価する訓練を積むことで、日常の議論に於いても事実に基づき論理的な主張を組み立てることができるようになる。例えば、筆者のある友人は、同様の訓練を積んだ為であろう、わたしが因果関係に基づく主張をすると、原因と結果の間に実際にどのような因果関係があるかを検討するのが常である。第2に、自他の主張の前提となってはいるが言葉の表面には現れない仮定を意識に上らせることで、前提が違うが故に噛み合わない議論を噛み合わせる糸口を見出すことができる。実際、互いの主張の前提を無意識のまま検討しない為に噛み合わない議論の如何に多いことか。

上述の観察から、筆者はAnalytical Writing AssessmentやCritical Reasoningの訓練により、異なる意見を持つ者同士が実りある建設的な議論を交わし、社会生活を共にできる程度の相互了解に到達できることを信じるものである。筆者がここで展開した主張が事実と論理に立脚しているか否かは、読者の判断にお任せしたい。


移調楽器

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2月3日に、東京文化会館で、リッカルド・ムーティ の指揮するシカゴ交響楽団によるチャイコフスキー交響曲第5番を聴いた。第1楽章の冒頭が、荘重なコラールのようで印象的だった。その記憶を留めておきたいと思い、帰りにスコアを買い、家で眺めていたのだが、クラリネットのメロディーが、聞き慣れた調性でない気がする。その上、クラリネットとそれ以外のパートの調号が違う。ピアノで主なパートをなぞりながら、「聞こえていた音とは違う気がするけれど、この途轍もない不協和音こそが第1楽章冒頭の重厚な響きを生み出していたのか」と独り合点していた。

クラリネットが移調楽器であることは、その後に読んだ野本由紀夫『はじめてのオーケストラ・スコア スコアの読み方ハンドブック』で知った。同書の説明を引用すると、「移調楽器とは、楽譜に書かれた音符(記譜音といいます)と、楽器から実際にでる音(実音といいます)の高さが異なる楽器のことを」いう。チャイコフスキーの第5交響曲は、クラリネットにA管の指示があるから、実音は記譜音よりも短3度下となる。それならば調性は他のパートと一致する。

思い返せば、この間違いは今回が初めてではない。ベートーベンの第9交響曲の最後の2小節は、わたしには綺麗な三和音の連打に聞こえたが、楽譜を見たら大変な不協和音が書かれている。首を傾げながらも、楽譜上の不協和音を綺麗な和音に響かせる交響曲の魔訶不思議さに舌を巻いたものだった。しかし今になって思えば、クラリネットとホルン、トランペットが移調楽器で、実音は三和音ではなかったものの完全5度である。恥ずかしくて頭に血が上る。

何事にも先達はあらまほしきものなれ。